【顔画像まとめ】張本勲の若い頃がかっこいい!幼少期から現在まで!

張本勲さんの若い頃は、現在の穏やかな表情とはひと味違い、鋭い眼差しと堂々とした体格が印象的でした。浪華商業高校から1959年に東映フライヤーズへ入団すると、18歳で新人王を獲得。右手に大やけどの後遺症を抱えながら、首位打者7回、通算3085安打という日本プロ野球史に残る数字を築きました。この記事では、少年時代から現役最晩年、引退後の80代まで、年代が確認できる顔画像を中心に振り返ります。2026年9月10日には、前日の9日に東京都内の病院で86歳で亡くなったことが報じられました。

名前張本勲(はりもと いさお)
生年月日1940年6月19日
死去2026年9月9日 86歳
出身地広島県広島市
身長・体重181cm・85kg
投打左投げ左打ち
所属東映・日拓・日本ハム、巨人、ロッテ
主な記録通算3085安打、504本塁打、首位打者7回、新人王、MVP
目次

張本勲の若い頃を顔画像で年代別に総まとめ!

張本勲さんは、貧困と差別、原爆、右手の後遺症という大きな困難を乗り越え、18歳でプロ野球の世界へ飛び込みました。10代の学生服姿から東映の背番号10、巨人のOH砲、ロッテでの3000安打まで、表情とユニフォームの変化を追っていきましょう。

被爆と右手の大やけどを乗り越えた少年時代

張本勲の少年時代の顔画像
出典:koimousagi.com

少年時代の張本勲さんは、ふっくらした頬と人懐っこい笑顔が印象的です。大人になってからの鋭い眼差しとは異なり、帽子の下にはあどけない表情が残っています。

張本さんは4歳のとき、トラック事故でたき火の中へ投げ出され、右手に重いやけどを負いました。親指以外の指が十分に開かない後遺症が残ったと、野球殿堂博物館の顕彰ページにも記されています。さらに5歳だった1945年8月6日、広島で被爆。爆心地近くにいた姉を亡くすという悲劇も経験しました。

戦後は母が営む小さな店を家族で支え、決して豊かとはいえない暮らしが続いたそうです。小学5年生で町内の野球に加わり、初打席で二塁打。投球は不自由な右手ではなく左手で覚え、やがて打つほうでも左打ちの才能を伸ばしました。後年の「安打製造機」は、逆境の中で工夫を積み重ねた少年から始まっていたのです。

浪華商業で強打者として注目された10代(16歳〜18歳)

1958年に浪華商業高校の制服を着た18歳の張本勲
出典:Number Web

1958年、18歳ごろの張本勲さんです。角のある学生帽と詰め襟の学生服が時代を感じさせます。まだプロ入り前ですが、眉が太く、引き締まった表情にはすでに勝負師らしい雰囲気があります。

広島の松本商業から大阪の浪華商業へ転校し、野球に打ち込みました。甲子園出場はかないませんでしたが、強烈な打球と負けん気はプロのスカウトに知られる存在に。水原茂監督のいる巨人を希望した時期もあったものの、最終的には東京で勝負したいという思いから東映入りを選びます。

東映入団と新人王で始まったプロ生活(18歳〜19歳)

1959年に東映フライヤーズへ入団した張本勲
出典:週刊ベースボールONLINE
1959年の東映新人時代に打撃練習をする張本勲
出典:日刊スポーツ
1959年の東映フライヤーズ新人時代の張本勲
出典:Number Web
1959年に東映へ入団した当時の張本勲
出典:47NEWS

1959年の入団当時は18歳で、6月の誕生日後に19歳になりました。4枚を見比べると、学生時代のあどけなさを残しつつも、ユニフォーム姿では胸板の厚さが目立ちます。背番号10は、この先も張本さんを象徴する番号になりました。

新人ながら開幕戦から先発に入り、125試合で打率.275、13本塁打、57打点、10盗塁。高卒1年目とは思えない数字で新人王を獲得しました。右手の弱さを見抜いた松木謙治郎コーチの助言を受け、飛距離だけを求めず、強いライナーを広角に打ち返す打撃を磨いたことが飛躍につながります。

初の首位打者と球宴MVPをつかんだ20代前半(20歳〜24歳)

1960年のオールスターで活躍した20歳の張本勲
出典:週刊ベースボールONLINE
1962年のオールスターMVPでオートバイにまたがる22歳の張本勲
出典:スポニチ

20歳の張本さんは、白黒写真でも伝わるほど喜びを全身で表しています。1960年は打率.302で初めて3割へ到達。翌1961年には打率.336で初の首位打者となり、一気に球界を代表する打者へ駆け上がりました。

22歳だった1962年、東映はリーグ初優勝と日本一を達成。張本さんは打率.333、31本塁打、99打点の活躍でパ・リーグMVPに選ばれました。故郷の広島で行われた球宴でも2本塁打を放ってMVP。副賞のオートバイにまたがる写真には、若きスターの誇らしさがにじんでいます。

4年連続首位打者と打3割8分3厘(25歳〜30歳)

1967年の東映フライヤーズ時代の張本勲
出典:1967年当時の野球カード
1970年7月のオールスターで王貞治と並ぶ30歳の張本勲
出典:47NEWS

1967年から1970年まで、張本さんは4年連続で首位打者に輝きました。1967年は26歳で迎え、誕生日後に27歳となる年。カラーのカード写真では、10代のころより顔が引き締まり、太い首と肩回りに一流打者の風格が表れています。

1970年には打率.3834を記録。当時の日本プロ野球最高打率で、1986年にランディ・バースが.389を記録するまで16年間もトップに立ち続けました。7月のオールスターで王貞治さんと並ぶ写真を見ると、同い年の名打者同士が互いを認め合う空気も伝わります。打率だけでなく34本塁打、100打点、16盗塁を残した、まさに全盛期でした。

2000安打と日拓・日本ハム時代(30歳〜34歳)

1971年2月の東映フライヤーズ時代の30歳の張本勲
出典:時事通信
1973年7月の日拓ホームフライヤーズ時代の33歳の張本勲
出典:時事通信
1975年5月に4000塁打を達成した34歳の張本勲
出典:47NEWS

30代前半になっても安打を重ねる速度は落ちません。1971年の端正なユニフォーム姿、1973年の豪快なスイング、1975年に帽子を振る笑顔。年齢を重ねるにつれ、表情に余裕と貫禄が加わっています。

1972年8月19日、西鉄戦で通算2000安打を達成。32歳での到達は当時として驚異的な速さでした。1973年は球団名が日拓ホームフライヤーズへ、1974年からは日本ハムファイターズへ変わりましたが、張本さんは変わらず中心打者。1974年には自身7度目となる首位打者を獲得し、1975年5月には史上5人目の通算4000塁打へ到達しました。

巨人移籍と2500安打でOH砲を組んだ30代半ば(35歳〜37歳)

1976年の巨人移籍1年目の35歳の張本勲
出典:時事通信
1977年9月に王貞治や長嶋茂雄らと並ぶ37歳の張本勲
出典:時事通信

1976年に巨人へ移籍すると、王貞治さんと「OH砲」を結成しました。縦じまのファイターズから伝統のGIANTSへ。白黒写真でも胸を張った立ち姿が目を引きます。移籍1年目は打率.355、182安打で、35歳とは思えない充実ぶりでした。

6月10日には通算2500安打を達成。長嶋茂雄監督のもとで巨人のリーグ優勝に貢献し、翌1977年も打率.348を残しました。写真には王さん、長嶋監督らと並ぶ張本さんの姿があります。個性の強いスターが集まった中でも、背番号10の存在感は埋もれていません。

巨人晩年からロッテ移籍へ(37歳〜39歳)

1978年1月に巨人の自主トレへ参加した37歳の張本勲
出典:時事通信
1978年の巨人時代に打席へ立つ張本勲
出典:47NEWS
1980年5月にロッテで3000安打へ迫る39歳の張本勲
出典:47NEWS

1978年、37歳の張本さんは土井正三さん、王さん、柴田勲さんらと自主トレに参加。年齢を重ねても下半身の安定した構えは健在です。同年に名球会が発足すると、すでに2000安打を達成していた張本さんも会員になりました。

1979年で巨人を離れ、1980年にロッテへ移籍。写真のユニフォームがGIANTSからLOTTEへ変わると、顔つきにもベテランらしい落ち着きが増しています。通算3000安打まであとわずか。39歳の張本さんは、新天地でも歴史的記録へ向かってバットを振り続けました。

3000安打を達成したロッテ最終盤(39歳〜40歳)

1980年5月28日に通算3000安打を本塁打で達成した39歳の張本勲
出典:時事通信
3000安打達成後に花束を受け取る39歳の張本勲
出典:時事通信
ロッテオリオンズのユニフォーム姿の39歳の張本勲
出典:時事通信

1980年5月28日、阪急戦で木下智裕投手から右翼席へ本塁打。日本プロ野球史上初の通算3000安打を最高の形で決めました。ヘルメットを投げ、両手を上げて喜ぶ姿は、普段の厳しい表情との落差もあって強く心に残ります。球場には母も来ており、長い野球人生を支えてくれた母の前で到達した特別な一打でした。

40歳となった1980年後半もロッテでプレーを続けました。最終的に積み上げた3085安打は、現在も日本プロ野球の通算最多記録です。長打力と走力を兼ね備え、3000本を超える安打を放った万能型の強打者でした。

張本勲は何がすごい?通算3085安打と現役後の歩み

張本勲さんのすごさは、通算3085安打という日本プロ野球記録だけではありません。首位打者7回、16年連続打率3割、通算500本塁打超、300盗塁超と、正確さ・長打力・機動力を高い水準で両立しました。引退後は解説者、名球会活動、野球教室、被爆体験の語り部としても存在感を示します。

項目記録・実績
通算安打3085本 NPB歴代1位
通算打率.319
本塁打504本
打点1676打点
盗塁319盗塁
首位打者7回
ベストナイン16回
新人王・MVP新人王1回、MVP1回

現役引退から野球殿堂入りへ(41歳〜49歳)

1981年10月31日の引退会見で話す41歳の張本勲
出典:時事通信
1990年1月に野球殿堂入りを喜ぶ49歳の張本勲
出典:47NEWS

1981年、通算3085安打を残して現役を引退。41歳の会見ではスーツ姿でマイクの前に立ち、23年間のプロ生活へ区切りをつけました。最終成績は打率.319、504本塁打、1676打点、319盗塁。引退後は野球評論家として、新たな歩みを始めます。

1990年1月、49歳で野球殿堂入り。恩師の水原茂さんのレリーフを指す写真では、現役時代の険しい勝負顔とは違う柔らかな笑みを見せています。プロ入りを導き、東映を日本一へ導いた恩師の前での顕彰は、張本さんにとって感慨深かったはずです。

サンデーモーニングで御意見番へ(50歳〜59歳)

2000年4月に野村克也と並ぶ59歳の張本勲
出典:日刊スポーツ

50代は評論家としての活動が定着し、1999年にはTBS系『サンデーモーニング』のスポーツコーナーへ出演開始。「喝」と「あっぱれ」で率直に球界を語る姿が広く知られるようになりました。2000年4月、59歳の写真では野村克也さんとグラウンドに立ち、現役時代を知る者同士ならではの貫禄を見せています。

名球会活動とイチローへの激励(60歳〜69歳)

2005年6月に始球式を務める64歳の張本勲
出典:時事通信
2009年4月にイチローと話す68歳の張本勲
出典:時事通信
2009年4月にマリナーズのイチローと談笑する68歳の張本勲
出典:47NEWS

60代の張本さんは、名球会の活動や野球イベントに積極的に参加しました。2005年の始球式ではユニフォーム姿で腕を振り、選手時代の面影を感じさせます。髪は短くなり、眼鏡姿が定着しましたが、表情の鋭さは変わりません。

2009年4月には、イチローさんが日米通算3086安打へ到達し、張本さんの3085安打を上回りました。張本さんはシアトルまで足を運んで祝福。記録を抜かれる側でありながら笑顔で肩を抱き、偉業をたたえています。厳しい評論の印象が強い一方、後輩の努力を認める「あっぱれ」な姿でした。

野球教室と被爆体験の発信を続けた70代前半(70歳〜74歳)

2010年6月20日の野球教室で指導する70歳の張本勲
出典:時事通信
2010年10月に大沢啓二の葬儀へ参列した70歳の張本勲
出典:時事通信
2010年10月に大沢啓二へ弔辞を読む70歳の張本勲
出典:時事通信
2011年12月のプロ野球コンベンションに出席した71歳の張本勲
出典:時事通信

70歳を迎えた2010年も、張本さんはグラウンドで子供たちへ打撃を教えていました。バットを握る若い選手の腕へ手を添える姿からは、現役時代に積み上げた技術を次代へ伝えようとする熱意が見えます。

同年10月には、東映・日本ハムの先輩で『サンデーモーニング』でも共演した大沢啓二さんの葬儀へ参列。弔辞を読む表情は厳粛そのものです。一方、2011年のプロ野球コンベンションでは穏やかな笑顔も見せました。このころから、自らの被爆体験を公の場で語り、核兵器や戦争の悲惨さを伝える機会も増えていきます。

御意見番として存在感を放った70代後半(75歳〜79歳)

2018年5月の77歳の張本勲
出典:デイリースポーツ
2019年3月の78歳の張本勲
出典:デイリースポーツ

70代後半は『サンデーモーニング』の御意見番として発する言葉がたびたび話題になりました。2018年、2019年の写真では白髪が増えたものの、眉や目元には若い頃の面影がはっきり残っています。身ぶりを交え、はっきり意見を述べる姿は日曜朝の名物でした。

2021年12月をもって同番組のレギュラーを卒業。その後も特別出演や野球イベントへの参加を続けました。「脳梗塞ではないか」「病気なのでは」と心配する声もありましたが、本人や家族、所属先から脳梗塞と公表された事実は確認できません。外見だけから病名を断定することはできないでしょう。

80代も球場へ!2026年9月10日に訃報(80歳〜86歳)

2024年5月に巨人のユニフォームで始球式を務めた83歳の張本勲
出典:日刊スポーツ
2025年に被爆体験を語った84歳の張本勲
出典:TBS NEWS DIG
2025年の張本勲
出典:TBS NEWS DIG
2026年9月10日の訃報で使用された86歳の張本勲
出典:TBS NEWS DIG

2024年5月、83歳の張本さんは東京ドームで行われた「王貞治DAY」の始球式へ登場。つえを使いながらも、背番号10の巨人ユニフォームでマウンドへ立ちました。細身になった姿を心配する声はあったものの、球場に姿を見せ、ファンの拍手に応えています。

2025年には『サンデーモーニング』の被爆80年企画へ出演し、5歳で体験した原爆の恐ろしさを証言しました。野球の記録だけでなく、戦争を知る一人として「同じ悲劇を繰り返してほしくない」という思いを次の世代へ残したのです。

2026年9月10日、TBS NEWS DIGなどが張本さんの死去を報道しました。関係者によると、9日に東京都内の病院で亡くなったとされています。86歳でした。死因については、報道時点で公表された情報を確認できません。7月には野球イベントへ姿を見せており、最後まで球界とつながり続けた人生でした。

張本勲の妻や子供は?家族と卓球の張本兄妹との関係

張本勲さんは結婚しており、妻と娘がいることは本人の回想や報道で知られています。ただし、妻と娘は芸能活動や公的活動をしている人物ではなく、氏名や顔を前面に出してきませんでした。公になっている範囲と、よく混同される卓球の張本智和選手・張本美和選手との関係を確認します。

妻と娘の顔画像は公表されている?

張本さんの妻と娘は一般人です。本人と確認できる公開済みの顔画像は、信頼できる公式発信や大手報道では確認できませんでした。そのため、プライバシーに配慮して妻や娘の顔画像は掲載していません。

TBS NEWS DIGが紹介した現役時代のエピソードでは、妻と幼い娘たちを起こさないよう別室で深夜に素振りをしていたことが語られています。家庭を持ってからも、試合への不安が消えず、夜中に起きてバットを振ったという張本さん。3085安打は才能だけでなく、人知れない反復練習によって積み上がった数字だとわかります。

卓球の張本智和と張本美和は孫ではない

2016年7月の76歳の張本勲
出典:デイリースポーツ

同じ「張本」という名字から、卓球の張本智和選手や張本美和選手が「張本勲さんの孫」「孫娘」ではないかと思う人もいるようです。しかし、血縁関係を示す公表はありません。智和選手と美和選手は兄妹で、父は張本宇さん、母は張凌さん。張本勲さんの子供や孫として紹介された事実はなく、同姓であることから生まれた誤解です。

2016年に13歳の智和選手が世界ジュニア選手権を制した際、張本勲さんは番組で「名前が良いから強くなると思う」と冗談を交えながら称賛しました。この発言も、祖父としてではなく、一流スポーツ選手の先輩として若い才能へ向けたものと見るのが自然です。

張本勲のプロフィールと経歴

張本勲さんは広島で生まれ、在日韓国人二世であることを隠さずに生きてきました。長く韓国籍でしたが、2024年末のインタビューで、数年前に日本国籍を取得していたと明かしています。国籍が変わっても、自らのルーツと日本で歩んだ野球人生の両方を大切にした人物でした。

年齢出来事
1940年0歳広島県広島市に生まれる
1944年4歳事故による大やけどで右手に後遺症が残る
1945年5歳広島で被爆し姉を亡くす
1958年18歳浪華商業高校で強打者として注目される
1959年18歳〜19歳東映へ入団し新人王
1961年21歳初の首位打者
1962年22歳東映の日本一に貢献しMVP
1970年30歳打率.3834で4年連続首位打者
1972年32歳通算2000安打
1976年35歳巨人へ移籍し通算2500安打
1980年39歳ロッテで日本プロ野球初の通算3000安打
1981年41歳通算3085安打で現役引退
1990年49歳野球殿堂入り
1999年59歳『サンデーモーニング』への出演開始
2021年81歳同番組のレギュラーを卒業
2024年83歳東京ドームの始球式へ登場
2026年86歳9月9日に死去し翌10日に報道

打撃だけを見ると天才肌に映りますが、本人は不安で眠れない夜に50回、100回と素振りを重ねたと語っています。右手の後遺症を補う握り方、投手の癖を読む観察力、体調管理。目に見えない準備の積み重ねが「安打製造機」を作りました。

まとめ

  • 張本勲さんは少年時代の事故で右手に後遺症が残り、5歳で広島の原爆も体験した
  • 浪華商業から1959年に東映へ入団し、18歳で新人王、22歳でMVPを獲得した
  • 20代後半に4年連続首位打者、30歳で当時の最高打率.3834を記録した
  • 巨人のOH砲、ロッテでの3000安打を経て、通算3085安打の日本記録を残した
  • 引退後は野球殿堂入りし、解説者、名球会活動、被爆体験の語り部として活躍した
  • 妻と娘は一般人で顔画像は公表されておらず、卓球の張本智和・美和兄妹との血縁関係も確認されていない
  • 2026年9月9日に86歳で亡くなり、翌10日に訃報が伝えられた

少年時代の笑顔から、鋭い眼差しの若き強打者、背番号10を背負ったベテラン、そして穏やかな御意見番へ。年代別の顔画像を追うと、張本勲さんの86年がそのまま日本プロ野球の歩みと重なって見えます。数字の偉大さはもちろん、困難を工夫と練習で乗り越え、最後は平和の大切さを語り継いだことも忘れられない功績です。

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